STORY
現代ではルーヴル美術館といえば“ガラスのピラミッド”というほどにピラミッドが定着しているが、その実現には数々のドラマがあった。
もともとルーヴル宮殿は1190 年頃にフィリップ・オーギュスト王が、かつて狼が闊歩していた森に城塞を築いたのが始まり。その長い歴史の中でルーヴルの一部は兵舎、刑務所、アカデミー、管理事務所、美術学校として様々な役割を果たしてきた。1793年にフランス革命会議は王室の美術コレクションを公開するためにギャラリーのひとつを使用することを決定し、美術館としてのルーヴル美術館の構想が生まれた。
1981年にフランスの大統領に就任したミッテラン大統領は、ルーヴル宮殿全体を美術館とする計画を発表し、その設計を中国系アメリカ人のイオ・ミン・ペイに託した。
だがこれまでもルーヴルはフランス人による設計しか受け付けておらず、さらに死者を弔うイメージのピラミッドには反発が多く、その実現には野党の反対や新聞、世論の批判など、多くの困難が付きまとった。
ミッテランは知能派で文化大臣のジャック・ラングとルーヴル建設国家委員会の理事長に実行派のエミール・ビアジニを就任させ、2人にペイの設計案の後押しをさせる。
しかし、完成までには極秘裏に進められていたペイのピラミッド案の最初の発表時に起きた猛反発やルーヴルの一角を占める大蔵省の退去問題、ミッテラン政権の選挙による敗北など、およそ考えうる最悪の事態が続いて起きる。ペイはそんな中、どのようにして意思を貫き、エッフェル塔、ポンピドゥーセンターに並ぶパリのランドマークを作り出したのか。
この物語は、1989年にルーヴルに現れたピラミッドがどのように実現し、どうやって受け入れられるまでになったかの戦いの歴史の物語である。